人間の脳を機能拡張する研究を汁

後藤貴子の米国ハイテク事情 コンピュータは人間を進化させるか
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2006/0925/high43.htm

●ネットが人々の無知を促進する可能性がある

    • 今の状態で一番足りないのは何か、インフラか。

ケイ:これは私自身もまだ理解しようとしていることだが、大事なことは学ぶことと関係があるだろう。

 学習には何種類かあると思う。1つはまず、すでに知っているものをさらに学ぶことだ。野球は知っている。そこへ新しい選手についてや彼の打撃成績を学ぶ。それを学ぶには何か新しく創造すべきことはない。知っていることにただわずかな肉付けをするだけだ。

 しかし多くの人はクリケットについては知らない。だからクリケット選手に関する単純な事実のためには、多くを学ばねばならない。ほとんどの興味深いアイデアは、学び手側にアクティブな創造を要求する。だから科学や数学を学ぶのは難しい。

 (Altoを生み出した)パロアルト研究所は'70年代には多くの発明を生み出す有名なコミュニティだった。面白いのは過去約25年間、その発明がみな、再発明されていることだ。

 だから'90年代になって我々は皆非常に失望した。(新世代の技術者らは)なぜただ我々が書いた論文を読んで実行しないのだと。我々が出した答えは、彼らは違うグループに属す人間なので、その論文を読めないということだ。彼らはポップカルチャーの人間だ。ポップカルチャーの人間にクラシック音楽を学ばせたかったら、彼らが自分でクラシック音楽を発明する必要がある。なぜなら(学習は)労力がかかるからだ。

 インターネットで今起きているのは、ダグ・エンゲルバートが'60年代にデモしてみせたものに似てきているということだ。Googleエンゲルバート(Engelbart)と打ち込むと、3つめのエントリーは彼が行なったデモのビデオだ。現在のコンピューティングカルチャーの中にいる者は誰でもGoogleにアクセスして、90分のビデオを見てエンゲルバートが考えたことを学ぶことができる。しかしそうする者はいない。

 私はGoogleの社員に、「エンゲルバートを知っているか」と聞いたことがある。「ええ。マウスを発明した人でしょ」。「彼がしたことは?」「さあ。なんでそんなことを知りたがるんです?」

 彼らは何でも見つけることができる会社にいるのに、学ぶ気がまるでなかった。エンゲルバートと打ち込めば最初のエントリーで彼が書いた75の論文を手に入れられる。3つめでデモが見られる。なのに、コンピュータ分野の最重要人物の一人だった人物に関して、彼らはなぜそんなに知りたがらないのか。この関心の無さはポップカルチャーの関心の無さだ。言い換えると彼らは過去のことすべてに関心が持てないのだ。

ローズ:彼らにとって魅力的なのはパッとアクセスできるということで、一度アクセスできたらそこにあるものに興味はない。

ケイ:しかも彼らはコンピュータ分野の専門家だ。もし物理学の専門家が、マクスウェルやアインシュタインの業績を知らなければ、学会追放ものだ。しかしコンピューティングではエンゲルバートの業績を知らなくても関係ない。なぜならこれがポップカルチャーだからだ。パンクロッカーがバッハの功績を知らないようなものだ。ポップカルチャーはバッハにまるで興味を持たない。ポップカルチャーではアイデンティティと参加こそが重要だから。

 Webの進みが遅いのは、Webが知る意欲のない大勢の人々によって動かされているためだと思う。彼らにはただ自分たちのアイデアがあって、それが彼らにとって重要なことだ。その考えがいいか悪いかは関係ない。ただ自分たちのアイデアを世界に向かって語り広めたいだけ。

 だからもし私がジャーナリストで、未来について書くなら、まっさきに心理学・社会学文化人類学などでポップカルチャーについて書いてある本を読む。ポップカルチャーの人間が大勢、インターネットでプログラミングしているのだから、よい予測がたくさんできるだろう。

 なぜなら、人はほとんどの時間、ノーマルなことをする。そしてノーマルなこととはカエルが見ることができないことだ。ポップカルチャーの人間にとってノーマルなことは何か。そう問えば、何が見えないことかがわかる。科学の考え方は、人は自分が盲目だと認めるまでどうやって見るかを学べない、ということだ。

 欠けているのはパースペクティブ(視野)だ。パースペクティブの欠落は好奇心の欠落に直結する。もしあなたが世界全体を見終わったと思うなら、あとはすべてのものに名前を付ければいい。しかし全部は見ていない、どころかほとんど見ていないと気付いたとたん、名前のないものを探し始めなければならない。

    • ではカエルとしてあえて聞くと、そのような状態で将来のコンピューティングはどうなるだろうか。

ケイ:私にとって最もシンプルなアナロジーは本がどう使われているかだ。本に書かれている事柄の範囲は広い。さまざまな人々がさまざまな本を買う。本はあなたが啓蒙される機会を与えるが、あなたを無理やり啓蒙しはしない。本を読む読者になるだけであなたは変わるが、それだけで啓蒙されるわけではない。同様に、コンピュータユーザーになるだけであなたは変わる。例えばインターネットを使えるようになりさまざまな物事を見つけるとあなたはそれまでと違った人間になる。しかし必ずしも啓蒙されるわけではない。

 過去1世紀の電子技術のほとんどは退行的だ。というのは電子技術の多くは書くことよりオーラルコミュニケーションを奨励するからだ。昔、人々に読み書きを強いた多くのものは今は存在しない。楽しみのために読まなければ、恐らく必要になったときには読む鍛錬が足りていないだろう。書くこともどんどん不要になっている。将来はもっと、コンピュータが、“学ばないこと”の言い訳になるかもしれない。米国の多くの学校は、子供がGoogleで何かを見つけコピーすると、それで学んでいると思っている。しかし私は、子供がそれについての作文を書かない限り学んだことにならないと主張している。作文は思考を組織化する。単に博物館の展示物を集めるだけではない。しかしほとんどの学校はその違いを分からない。

 だから、理想的未来は人々が今日よりも、よりよく考える未来だが、ありそうな未来は、人々がよりよく考えないでしかもそれに気付かない未来かもしれない。