国語教育

はてなブックマーク最近の人気エントリーに、いくつか日本語の話題があったので、自分もいろいろと思い出してきました。私は、英語という対立軸を持ち出す前に、国語の授業について考えてみたいと思います。


小中高と授業を受けてきて、最も意味がわからない授業が国語系の授業だった。
漢字をひたすら書いたり、長い文章を細切れに何週間にもわたって読んだり、
そうかと思えば、17音の俳句や狂言川柳。
今は使うことのない古い日本語を学んだり、漢文を日本語的に読んだり。
文法をきっちりとやったかと思えば、訳のわからない詩を朗読させられたり。


なぜ、こんなに詰め込むのか?
>これが「国語」の授業だからだ!
と、国語教師にはいわれそうですけど。<昔の経験からの偏見w
私的に、分割して他の授業にくっつけた方がいいのではないか?と思うことを書いてみます。


まず、詩はどうにかしてほしい。生徒はエスパーじゃないんだし。音読させられた日にはもう、音楽と統合したら?って感じですな。


母国語の連続性を担保するために、総合的な学習の時間といっても過言ではない、詰め込みっぷりの古文・漢文。でも、これらを国語の授業でやる必要は無いんじゃないか?とおもう。また、高校で、独立した授業でやるものでもないとも思う。単語、用法、文法に違いが見られるというのは、
現代においても人によって、文章によってちょっとずつ違ってるからしょうがないかなと。新しい文章には、何かわからない単語や用法が出てくるものだけど、それが異常に多いと考えれば、諦めはつく。しかし、文章の持つ論理性が、信仰、生活習慣、社会制度などに大きく影響されてしまう。このため、少量の文章でも、膨大な時間をつぎ込まないと理解できないし、それはむしろ歴史の授業のものに近いと思う。そんなわけだから、社会科系の授業の中に、一次資料としてねじ込んで、それをきっちり読ませてみたりすればいいのではないでしょうか。


説教臭い話は、倫理や道徳に丸投げ。


と、こんな感じで、いろいろ他の授業に押し付けていって、
最後に、これが国語だ!というような部分が残れば、
それをきっちり教えればよいのではないでしょうか。
さらに、課程の試験から、曖昧さが減れば言うことなしですね。


とはいっても、大体の人に必要になる国語の部分は、
自分のやったことや、身の回りに起きた出来事を、
過不足なく報告するスキルでしょう。
このスキルをある程度身につけて中学を卒業できる、
課程である必要があると思いますけど。


私は課題図書も読まない>感想文も出さないような生徒だったので、
理路整然と過不足なく文章を書けないのですが。


(´-`).。oO(こんな人間が1次2次あわせて3週間ぐらいの勉強で、二つのお題あわせて記述用紙の表の8割ぐらいしか書いてない小論文をだしても国Ⅰ(化)に中ぐらいの成績で受かるから驚きだ。こんな人間だから面接で落ちたけど。)